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To-Doリストが破綻した後に [Thoughts]

Renji Talk及びこのブログには、「To Doリスト」という検索ワードでくる方がけっこうたくさんいる。

もちろんそれは、アウトライナーでTo-Doリストをつくる話があったり、レオの「To-Doリストを捨てろ」があるから。検索ワードの組み合わせとしては、「to do ツール」とか「to do 作り方」とかそんな感じのが多い。

みんなTo-Doリストを必要としてるのね。

そういう人には申し訳ないけど、最近ずっと考えてるのはTo-Doリストの破綻について。



部署を異動になって以前が嘘みたいに人間らしい暮らしだなー、と思っていたのが一ヶ月前。

7月に入って気づいてみれば、おそらく今の職場に移ってきて以来最悪の状況に追い込まれ、昨日に至っては約45時間一睡もしないという事態に(仕事中自覚のないまま一瞬落ちたことは何回もあったけど)。

その間に複数のダブルブッキング、資料の送付ミス、連絡の遅れや行き違いによるクレーム、感情的対立とそれらに起因する負の連鎖が起こり、それがまた状況を悪化させる。

仕事がここまで破綻に瀕したのは今の職場以前を含めても初めてかも。

で、何が言いたいかというと、こういう状況ではどんな「手法」も「ツール」も全く役には立たないということ。状況がある限度を超えると、To-Doリストやカレンダーを更新する余裕さえないまま放置され、見ることもなくなる(そしてその結果としてダブルブッキングが発生する)。

たぶんTo-Doリストという発想自体が、破綻しているんだと思う。もっと行ってしまうと「手法」や「ツール」でこの問題を解決できるという発想が。



70年代のアメリカでは黄色いリーガルパッドに「やるべきこと」を書き出したり、インデックスカードを使ったりということがけっこう行われていたけど、子どもの頃見ていた日本のオトナたちは、誰もTo-Doリストなんか使っていなかった。少なくともぼくの周囲にいたオトナたち、具体的には父親や学校の先生たちだけど。

みんな能率手帳に代表されるあのビジネス手帳というやつを持っていて、それで充分みたいだった。

それが変化してきたのは(たぶん)情報化社会とバブルが到来して、システム手帳のブームが起こった80年代半ばぐらいからだと思うけど。

その後はPCとインターネット(特にメール)の普及とともに、ごく平均的な市民が抱える「やるべきこと」の数が劇的に増え、もはやその種のツールや手法なしには処理できなくなり…それが極限まで発達したものがGTDだったと思う。

処理の効率性ということでいえば、たぶんGTD以上のものはない。でも、そのGTDでさえ現実の前には通用しないことに、みんなが気づき始めていると思う。

現実に直面する問題は、効率よくやるべきことをこなせば解決するものではない。その当たり前のことが、究極の手法であるGTDによって、逆に痛感されるようになったというか。



レオ・バボータのZen Habitsが当初はGTDブログだったことも、そしてGTDの独自解釈とも言うべきZTDを経てGTDからも離れていき、最終的には「To-Doリストを捨てろ」というところに至ったのも、何かを示しているような気がする。

レオのやり方をかいつまんでいうと「その日最も大切なことを一つだけ選ぶ。朝一番でそれをやる。終わるまでそれだけをやる。終わったら他のことをやる」ということ(詳しくはレオ著・拙訳「フォーカス」を読んでね)。

多くの人がその方法は実践不可能だという。レオを訳していながらこんなこと言うとなんだけど、実はぼく自身もそう思う。

思うけれども、ぼくがその意見に同意するのは「今のあり方を自明のものとするかぎり」という条件つきでのこと。

自分自身を例としてあげたけど、世の中にはたくさんの人が同じような状況(そしてもっとはるかにひどい状況に)に直面しているはずで、そしてそれは悪化する一方のはず。

こんな状況で重要なのは、状況に対処する方法を見つけることではなく、状況を変えることだ。あるいは間違っているのは状況の方だということを意識することだ。

そう思えば、どんな方向に変えていくべきか、本来どうあるべきか、少なくともその一端を示しているのがレオの主張だということがよくわかる。

ひと言でいうと、それは行動の基準を自分に置くということだ。

だから、以前にも書いたけど、今必要なのはTo-DoリストではなくTo-Beリストなのだ。
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