SSブログ

「雑」の機能、そして「楽」との関係 [Thoughts]

自分のことをあまりよく知らない人から、ほとんど例外なく言われるのは「真面目で丁寧できちんとしてそう」ということ。

だからたぶん、自分が人に対してそういう印象を与えているのは事実だと思うし、おそらくその印象のまま終わる人の方が数としては多いはず。

でも、少し突っ込んだつきあいをしたり、いっしょに仕事をしたりした人なら知ってるとおり、実は全然そうではない。いやたぶんまじめではあると思うけど、全然「きちんと」してはいない。基本的に雑で大雑把な人間だ。

本当は「真面目で丁寧できちんとした」人になりたいと思うけど、そしてそのために子どもの頃からずいぶん努力したけど、そうはなれなかった。そのことに長年コンプレックスを抱いてたりもする。

でも最近思うんだけど、もし自分が雑で大雑把な性格でなかったら、もし自分に課せられた役割や責任を、すべてきちんと破綻なく確実に完璧にこなそうとしていたら、自分はたぶん30代のはじめくらいで「焼けきれて」いたんじゃないだろうか。

身の回りにいる、あるいはかつて身の回りにいた、自分より遥かに緻密できちんとしていて優秀で責任感の強い、要するに「真面目で丁寧できちんとした」人の多くが、三十代後半から四十代にかけて身体を壊したり心を病んだり、あるいは表面的にはそうでなくても心の中から何かの光が消えてしまうのを目の当たりにしていると本当にそう思う。それは文字通り「焼けきれる」という言葉がふさわしい。

忘却が脳の大切な機能であるように、雑であるということは、ある場合には自分を守るための生き残るための機能なんじゃないかとも思う。

そしてその機能が発揮されて、自分を守ることができた人が、たとえ完璧とは言いがたくても、結果的には自分に課せられた役割や責任を果たし続けることができるという、この不思議。

自分に課せられた役割や責任というのは、究極的には〈生きる〉ことそのものだ。



恐ろしいのは、この歳になると「おそらくこの人は近い将来焼けきれるだろう」ということがわかるようになってくることだ(そして大抵その通りになる)。

だから「雑」であることについて、最近よく考える。

もしかしたら、「雑」をもう少しポジティブな言葉に言い換えると、レオ・バボータの言う「楽(Effortless)」に近いものになるのかもしれない。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0