本を読まない人間、あるいは「本」の呪縛からの解放 [Thoughts]
世の中には二種類の人間がいる。
本を読む人間と、本を読まない人間だ。
■
ぼくは、後者だった。
■
祖父が英米文学、大叔父が海外ミステリーの翻訳家という家で育ったせいで、実家には本がたくさんあった。離れにあった納戸は、本の重みで文字通り傾いていた。
そこら中に貴重な本がごろごろしていたのだと思う。
「思う」というのは、実家に住んでいた頃にそれらを手に取ったことはほとんどなかったから。そして結婚して実家を離れた後、それらの本の大半は処分されてしまったから(古書店のおじさんがほくほくしながら取りに来たって)。
もったいないことをしたな。でも、人生ってそういうものなんだ、たぶん。
■
「本を読め」というのが父の口癖だった。
世の中には二種類の人間がいる。本を読む人間と、本を読まない人間だ。父が前者に優位性を認めていることは明らかだった。
当然の結果として、ぼくは本を読まない子どもになった。
高校生の頃、「お前はとうとう本を読まない人間になってしまったな」と言われたことをよく覚えている。
■
正確にいうと、ぼくは活字を読まなかったわけではない。活字を読んでいた量はおそらく周囲の大人たちに劣らなかっただろうと思う。父が本として認識するものを読まなかったということ。
太宰とドストエフスキーを愛し、若い頃は自らもロシア文学研究者を志した(らしい)父が「本」として認識するのは、いわゆる「文学作品」だった。
そういうものは(頼まなくても)いくらでも買ってもらえたし、祖父が訳した本を興味にかられてめくってみたことだってある。
でも、そういう文学的な文学作品をどうしてもうまく読むことができなかった。言葉が自分の生理の中に勝手に進入してくる異物のようにしか感じられなくて。
がまんして読んでいれば面白くなると言われてがまんして読んでいると、乗り物酔いみたいな吐き気とめまいに襲われた(一回本当に倒れたことがある)。
だからあきらめた。父の言うとおり、自分は「本を読まない人間」なのだと思った。
■
自分も父や他の家族たちと同じくらい「読む」ことを切実に必要としていることに気づいたのは、大学生になってから。
とうてい文学的とはいえない実用書を何十回でも(ひょっとすると何百回でも)繰り返し読んでいることを、その中にある「情報」をとっくの昔に暗記してしまった後でも、気に入った本は何回でも読み返すことができることを自覚してからだった。
実用書には父の言うような「本」のように、勝手に自分の生理の中に進入してきたりしないという安心感があったのだと思う。
お気に入りの実用書には確かに共通点があった。
それは読者をドライブしてくれる心地よいリズムとメロディのうねりがあること。どんな実用書にもそれがあるわけではない。一冊あげるとすれば、梅棹忠夫「知的生産の技術」。
実はそれがテクストの快楽を味わう行為そのものなのだと気づいたとき、ぼくは「本」と和解できたのだと思う。あるいは本の呪縛から解放されたというか。
「本」たちが悪いのではなく、ましてそれを読めない自分が悪いのでもなく、たまたまそのときの自分の生理が、「本」たちからテクストの快楽を得られなかっただけなのだと。
父の思うような文学のテクストに、自分の生理的なリズムをシンクロできなかっただけなのだと。
■
生理的な抵抗がなく、ドライブする言葉のリズムとメロディに純粋にひたれる、実用書でない「本」に出会ったのは大学一年のときだった。
それが、授業と授業の間の暇つぶしのつもりで買った「羊をめぐる冒険」だった。
本を読む人間と、本を読まない人間だ。
■
ぼくは、後者だった。
■
祖父が英米文学、大叔父が海外ミステリーの翻訳家という家で育ったせいで、実家には本がたくさんあった。離れにあった納戸は、本の重みで文字通り傾いていた。
そこら中に貴重な本がごろごろしていたのだと思う。
「思う」というのは、実家に住んでいた頃にそれらを手に取ったことはほとんどなかったから。そして結婚して実家を離れた後、それらの本の大半は処分されてしまったから(古書店のおじさんがほくほくしながら取りに来たって)。
もったいないことをしたな。でも、人生ってそういうものなんだ、たぶん。
■
「本を読め」というのが父の口癖だった。
世の中には二種類の人間がいる。本を読む人間と、本を読まない人間だ。父が前者に優位性を認めていることは明らかだった。
当然の結果として、ぼくは本を読まない子どもになった。
高校生の頃、「お前はとうとう本を読まない人間になってしまったな」と言われたことをよく覚えている。
■
正確にいうと、ぼくは活字を読まなかったわけではない。活字を読んでいた量はおそらく周囲の大人たちに劣らなかっただろうと思う。父が本として認識するものを読まなかったということ。
太宰とドストエフスキーを愛し、若い頃は自らもロシア文学研究者を志した(らしい)父が「本」として認識するのは、いわゆる「文学作品」だった。
そういうものは(頼まなくても)いくらでも買ってもらえたし、祖父が訳した本を興味にかられてめくってみたことだってある。
でも、そういう文学的な文学作品をどうしてもうまく読むことができなかった。言葉が自分の生理の中に勝手に進入してくる異物のようにしか感じられなくて。
がまんして読んでいれば面白くなると言われてがまんして読んでいると、乗り物酔いみたいな吐き気とめまいに襲われた(一回本当に倒れたことがある)。
だからあきらめた。父の言うとおり、自分は「本を読まない人間」なのだと思った。
■
自分も父や他の家族たちと同じくらい「読む」ことを切実に必要としていることに気づいたのは、大学生になってから。
とうてい文学的とはいえない実用書を何十回でも(ひょっとすると何百回でも)繰り返し読んでいることを、その中にある「情報」をとっくの昔に暗記してしまった後でも、気に入った本は何回でも読み返すことができることを自覚してからだった。
実用書には父の言うような「本」のように、勝手に自分の生理の中に進入してきたりしないという安心感があったのだと思う。
お気に入りの実用書には確かに共通点があった。
それは読者をドライブしてくれる心地よいリズムとメロディのうねりがあること。どんな実用書にもそれがあるわけではない。一冊あげるとすれば、梅棹忠夫「知的生産の技術」。
実はそれがテクストの快楽を味わう行為そのものなのだと気づいたとき、ぼくは「本」と和解できたのだと思う。あるいは本の呪縛から解放されたというか。
「本」たちが悪いのではなく、ましてそれを読めない自分が悪いのでもなく、たまたまそのときの自分の生理が、「本」たちからテクストの快楽を得られなかっただけなのだと。
父の思うような文学のテクストに、自分の生理的なリズムをシンクロできなかっただけなのだと。
■
生理的な抵抗がなく、ドライブする言葉のリズムとメロディに純粋にひたれる、実用書でない「本」に出会ったのは大学一年のときだった。
それが、授業と授業の間の暇つぶしのつもりで買った「羊をめぐる冒険」だった。
3年以上前のブログ(なんと表現すれば良いか判らないのですが)にコメントすることをお許しください。
羊をめぐる冒険、ですか。良い作品ですよね。私もあの作品を読んでから、小説を読むという習慣ができました。ノルウェーの森はイマイチ馴染まなかったのですが、ダンスンダスダンスなどは本がくたびれるくらい愛読いたしました。その頃は頭の中が春樹ワールドになっていた気がします。(笑)
さて、本題ですが、「文章のメロディとリズム」という捉え方が凄くよくわかって、色々なことが腑に落ちましたので、感謝の言葉をと思いましてコメントさせて頂きました。素晴らしい知見をありがとうございました。
by お名前(必須) (2017-04-10 13:37)
コメントありがとうございます。
こういう捉え方が正しいのかどうかはわかりません。
でも、文章を読むという行為は、文章のリズムとメロディと自分の生理をシンクロさせること、という感覚は今も変わりません。
by Tak. (2017-04-15 11:09)