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麻薬のような孤独と自由(だと思った) [Diary]

中学一年の頃、「遠くに行くこと」に取り憑かれた。

塾をさぼって駅前から適当なバスに乗って終点まで乗る。終点についたら、少しだけ歩き回ってまた同じバスに乗って帰ってくる。

バスの窓から見える空は夕焼け。
知らない街並み。
ちょっと駅から離れればいたるところに残っていた原っぱ。
風に揺れるススキ。

その孤独と自由な感じが忘れられず、行動はエスカレートした。地元駅のバス停から乗れるバスで満足できなくなり、電車に乗るようになった。

鶴見線に乗ってコンビナートの見える埠頭へ。
京急に乗って逗子の海岸まで。
地元の電車では満足できなくなり、
横浜線で八王子、南部線で立川、東急田園都市線でつきみ野、相鉄で海老名。

学校が終わってから夕食までの間に行って帰ってこられる範囲はほとんど制覇し、やがて日曜日のたびにどれだけ遠くに行けるか。

小田急線で江ノ島、小田原。
京王線で高尾山。
西武線で秩父。
国鉄で青梅、奥多摩。
銚子、館山、安房鴨川。

強風が吹き付ける冬の銚子駅で誰もいないホームでひとり帰りの電車を待つ時の感じ。

え、そんな資金がどこから出た?
まったくもって自慢できる話ではないので、想像してください。

でももちろん、その孤独と自由は帰る場所がある前提のものだ。

どこまでいってもぼくは恵まれた家庭に育ち、守られていた。その中での孤独と自由。自分はまだ子供にすぎないのだという、逃れようのない現実。

「帰る場所がある」ことの意味、「守られている」ということの意味。

そして、おそらく家族はその行動を(そして資金源を)分かっていながら黙認しているのだということに気づいたとき、中毒症状は突然終わった。

クラスの女の子を好きになって、生命エネルギーがそっちに向いたということもある、かもしれない。

でも、今でもあの麻薬のような孤独と自由(だと思った)の感覚は、生々しく残っている。

そして気がつくと、横浜駅のバスターミナルで、目についたいちばん魅力的な行き先のバスに乗り、終点で降りてぶらぶら散歩してみたいなあ、とか思っていたり。

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