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おいしいものつながり [Diary]

Kさんのところから戻ったあとTomo.さんと合流して、久しぶりに「司」のコロッケ定食を食べる。たぶん二年ぶりくらい。

すいぶん長い間休業していて、たぶんもう復活しないんだろうな、あのコロッケはもう食べられないんだろうな、と諦めていたところ、去年営業を再開してるのを見つけたときにはけっこううれしかった。

コロッケ定食を食べていたら「山角」さんが入ってきて、挨拶する。何回かパンを買いに行っただけなのに、ぼくと Tomo.さんの顔を覚えている「山角」さんはすごい。

「山角」さんもコロッケ定食を頼んでいた。「山角」さんがつくるものすごくおいしいパンを知っているので、その「山角」さんと同じものを食べている自分がちょっとうれしくなる。

療養所にて [Diary]

同僚たちと、病気療養中のKさんのところに行く。

Kさんの様子は想像していたよりもずっと良さそうで、先は長い道のりかもしれないけれど、そこには確かに希望が感じられた。

Kさんに笑顔で代わる代わる声をかける同僚たちが、いい男といい女に見えた。

夢は結果的にしかわからない [Thoughts]

同僚に「Tak.さんは翻訳がやりたいんですか?」と聞かれて(たまたまそのとき翻訳の話をしていたからなんですが)自分は果たして何がやりたいのだろうか、と考えました。

それは確かに自分がやりたいことの一つで(なにしろ祖父は翻訳家だったんだし)、でも翻訳がやりたいというよりも、自分が面白いと思うものでたまたま英語で書いてあるものを紹介したいというのが近い、かもしれない。

自分はいったい何をやりたいんだろう? というのは、40歳を超えた人間の言うことじゃないかもしれないけど、未だにそれがわからないんだからしょうがないのです。少なくとも「職業」という形では、わからない。天然ライターである、ということはわかってるんですが。

やりたいことは結果的にしかわからない、というのはここ10年くらいで自分が痛感したことで、その意味では「夢」や「目標」を定めてそこに向かってステップを踏んで努力することを絶対視するような考え方は、ある意味でとても暴力的です。

いや、努力すること自体が悪いんじゃない(悪いはずがないです)。問題なのはむしろ「夢」から「実現」へのプロセスを絶対視することかもしれない。

夢や目標が最初から形になって浮かぶ人というのは、実はごくまれな幸せな人です(そう、それは幸せなことです)。ましてそれが「職業」という形をとって浮かぶというのは。

たとえば野球が好きな人が野球選手を目指すとか、
音楽が好きな人がミュージシャンを目指すとか、
洋服が好きな人が洋服屋さんを目指すとか、コンピューターが好きな人がプログラマーを目指すとか、
お金が好きな人がお金持ちを目指すとか(?)。

それはとても幸せなことだから、ぜひそうするべきです。でも、そうではない大多数の人に、具体的な形をとった「夢」と、実現へのステップを定めるように強制すれば、多くの場合出てくるのは自分に対する嘘かごまかしです。嘘の夢に対して努力しようとする行為は、ある意味では段階を踏んで自分を壊していく、あるいは歪めていくことです。

こういうことを書くとすごく怒る人がいるのはわかっていますが、ぼくはそう思います。

それよりも、その瞬間にやりたいと思うことを直感のままに、あるいは欲望のままに全力で、誠実にやり続けることが、「結果的に」何かにつながる可能性が高いのではないか、という気がします。そのとき、「ああ、これが自分の夢だったんだ」と気づく、かもしれない。

いや、何にもつながらないかもしれないけど、それもまた人生です。

本日の一言 [Diary]

「どこかに何かの出口はないかな?」(Tomo.さん)

痛みとして出るもの [Diary]

日曜日、せっかく遊びに出たのに頭と肩と腰と背中とふくらはぎが痛くて、以前誰かに「歳をとると疲れが痛みになって出る」と言われたことを思い出し、ああそういうことなのね、なんだかリアルね、と思ったのだけど、うちに帰ってみたら熱があって、鼻水も出るし咳も出るし、ようするに風邪のせいだったみたい。

ところで、昔から悲しいことがあると、こめかみが痛くなるんだけど。

人生観の相違ですね [Diary]

「Tak.くんはまだ若いくせに女が嫌いなのか?」と発言したEさんへの回答。

私は知らない女より知ってる女が好きなのです。

何の話かというと、つまりキャバクラは楽しいか楽しくないかという話なんですが。