SSブログ

無駄でない時間の例 [Thoughts]

笑う
寝る
楽しむ
書く
考える
学ぶ
働く
創る
美しいものをみる
素敵な音楽を聴く
夢中で何かする
ぼんやりする
人を助ける
人に共感する
目的もなく歩く
どこまでも歩く
目的もなく本を読む
いつまでも話がつきない人といつまでも話す
いっしょにごはんを食べるとおいしい人とごはんを食べる
手をつなぐ
くっつく
どきどきする
いろいろする
時間を忘れる
生きる
愛する

とかとか。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

本日の格言 [Diary]

「道具なんかなんでもいいというのは、女なら誰でもいいというのと同じだ。」(Tomo.)
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

君は気づいているか(2) [Diary]

今日の仕事をすべて終えなくても死なないけれど、今日の仕事をすべて終えようとし続ければ死ぬかもしれないということに。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

君は気づいているか(1) [Diary]

内側の人より外側の人の方が実は仲間が多いということに。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

驚異の平日と思うけれど [Thoughts]

最初から決めていたとおり、今日は7時を回ったところですばやく職場を出て、地元の駅でTomo.さんと合流し、一週間前に行ったばかりの「司」でまたコロッケを食べ、買い物をして家に帰ったらまだ9時半だった。

平日なのに、驚異的。そう感じるということは、たぶん自分の感覚も麻痺している。

時間が無限ではないということは、残りの時間が少なくなっていくということであり、しかもそれは自分の人生だけでなく、好きな人たちの残りの時間でもあり、その時間を使って月に120時間残業したりしているということのほうが、本当は驚異的なはずなのだ。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

変わると思ってなかったこと [Diary]

いつも髪を切ってくれていたAさんが、階段から落ちて腕を複雑骨折したと、カットを予約していた土曜日、寝坊してキャンセルの電話を入れたときに知らされた。

美容師という手先を使う細かい仕事にとって、腕の複雑骨折というのがどういう意味を持つのか、あえて深くは考えないけれど。とにかくわかっているのは、復帰のめどは立っていないということ。

一応言われるまま次の予約をいれたけど、そもそも10年以上も電車に乗って都内まで髪を切りに行っていたのは、Aさんに会うためなのだった。決めたわけじゃないけど、Aさんが戻ってくるまで、しばらくの間その店には行かないだろう、という気がした。

最近、時間を無駄にできない、つまんないことに時間を使ってはいけない、と強く感じることが多い。変わると思ってなかったことが突然変わったとき、特に。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

やっと猫に会った [Diary]

ひさしぶり。
catcomes.jpg

まあゆっくり。
catlays.jpg
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

雪だから [Diary]

今日もやっぱりいつもの猫には会えないのだった。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

空気と世間と帰国子女 [Thoughts]

鴻上尚史「『空気』と『世間』」について、全体として強く共感しながらも違和感を感じる部分があったと書きましたが、それがいったい何なのか、最近ずっと考えていました。

たぶん、それは書いてあることが間違ってるということではなく(間違っていないと思います)、おそらく個人的なことから来ています。

たとえば「帰国子女」について触れた部分があります。
クラスのまとまりがまだ強固だった時代、「班と連帯責任」という考え方はゆるぎないものでした。 このシステムに抗議し続けたのは、「個人」であることをずっと求められて育った「帰国子女」だけでした。 小学校が特徴的ですが、何人かで「班」を作り、班の中の誰かが宿題を忘れたり、問題を起こすと、班全体の連帯責任にする、という古典的な教育方法がありました(あります)。 班の一人でも、例えば漢字試験に合格しなければ、班全体の責任になる。 ——中略—— けれど、一人の失敗で班全体が怒られた時に、「それは彼の失敗であって、私の失敗ではない。どうして、私は怒られるのか?」というしごくまっとうな疑問を「世間」の外で育った帰国子女は持ったのです。 (鴻上尚史「『空気』と『世間』」p.163-p.164)

ぼくはいわゆる「帰国子女」ですが(そして、帰国子女が急激に増加して学校現場で問題になり始めた時期の帰国子女ですが)、自分はこんなふうに異議や疑問を唱えただろうか? ここがヘンだよ日本人、と主張しただろうか?

そんなことはなく、自分はむしろ「集団の内側の人」になろうとして悪戦苦闘した記憶しかありません。

当時はそんな風には思っていなかったけれど、そのことで、自分の中の何かをずいぶん歪めてしまったような気がするし、その歪みは大人になってからもずっと続き、ある意味で自分は今でもその影響下にあると思います。

鴻上さんの言う通り、日本の学校でもっとも理解できなかったもののひとつは「班行動」と「連帯責任」でした。

でもそれは「異議を唱える」という感じではなく、「ただ理解できなくておろおろする」というのに近いものでした。周囲は次にどう動くのか、自分が次にどうするべきなのか、それさえ想像がつかないのに、間違えてはいけない、という感覚だけはひしひしと伝わってきました。決して「こんなのはおかしい。非論理的だ」と言って済ませられる状況ではありませんでした。

帰国子女が集団の外に立って、「それはおかしいよね、意味ないよね」と疑問あるいは異議を唱えたというのは、一部の例か、あるいはステレオタイプです。

この「わからなさ」は「母国」に帰ってきたはずの自分としては、けっこうショッキングなことだったし、「母国」に受け入れられるためにどうすればいいのか、子供心にかなり必死に考えたわけです。

その中で次第に身につけていった生きる術みたいなものがあり、それは表面的に適応を早めてくれたかもしれませんが、それが自分の何かを大きくゆがめたような気がするし、自分は今でもその影響下にあると思います。

ある意味では帰国子女(=外からやってきた、外のシステムを身に付けた人間)だからこそ、集団の内側に入ろうとしたときに、集団(この場合は学校)がはらむ問題点を、よりストレートに、まともにかぶることになる、と個人的には考えています。

まだまだうまく言えませんが、違和感というのは、たぶんそういうことです。少なくともその一部は。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

こんな日は猫にも会えない [Diary]

年に一度あるかないかのダメな日。

午前中の打ち合わせはかろうじて普通にこなしたものの、
午後職場に戻ってからまったく仕事が手につかず、
画面をただにらみながらハイチュウを6個も食べてしまったとか、
かろうじて一通書いたメールを同姓の他人に間違えて送ってしまったとか、
すいません削除してくださいと送ったメールを
今度は本来最初にメールを送るはずだった人に送ってしまったとか、
そのあと鼻血が出たとか、
そんなの。

昨日、すごくヘビーなことを書こうとして結局書ききれず、自分で毒に当てられたのかもしれないし、あるいは単なる寝不足かもしれないし。

いずれにしても、こんな日はいくらがんばっても無駄なので(それどころか変な地雷を踏む危険が増えるだけなので)とっとと仕事を切り上げて早めに帰る。

こんな日はもちろん、いつも猫がいる場所にも猫はいない。
コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感