誰のためでもないものが、結果的に誰かの何かに触れる [Thoughts]
今日自分のnote記事を書いて、give(役に立たねば)でも take(利益をえねば)でもないwant(ただ書きたいだけ)という気持ちも大切にしなければなぁ、と痛感しました。 もちろん独りよがりは良くないけれど。 #WRM感想
— るう@シャンパンロゼ (@ruu_embo) April
14, 2014
give(役に立たねば)でもtake(利益を得ねば)でもなくときにはwant(ただ書きたい)を優先するということはとても大切だという気がする。おそらく「大切」の意味は人によって違うのだろうけど。
目的もなく言葉のピースを吐き出しては組み立てる作業をしていると、自分の中のずっと光が当たってなかった何かに行き当たることがある。
それは個人的にとても意味のあることだし、気がつけばけっこう長い間ブログを書き続けてきた最大の理由も、たぶんそこにある。でもなぜそれをわざわざ公共の(?)場所で行う必要があるのかというのが引っかかっていたのも事実。
その種のフリーライティングは昔からやっていたことだから(人生にけっこう大きな影響を及ぼす結果につながったことも一度や二度ではない)、それだけが理由にはならない。
答えは、冒頭で引用したツイートにある「独りよがりは良くないけれど」という言葉の中にあるのではないか、と思う。
独りよがりにならないために、人に読んでもらえるように、脈絡のないピースを、人に見せられる状態にしようと努力すということ。
伝えたいことが伝わるようにロジックと形式を。
読むのが苦痛にならないようにリズムとメロディを。
うまくいくかどうかは別にして、そのために努力する。その過程で、思いもかけない形でピースがはまる。結果的に、放っておけば思いつかないようなことを書いてしまう。そして、後から読み返すとそれは確かに自分の中に存在しながら光が当たっていなかった、重要な何かだったり。
そんな経験を繰り返しているうちに、自分の中に閉じて固まったもの、奥底に潜んでいたものが溶け出してくるような気がすることがある(もっと生々しい表現を使ってもいいけど、やめておく)。
それは、極めて個人的な経験であると同時に、人に読んでもらう前提の努力なしでは起こりえないことだ。少なくとも自分はそう感じる。
もちろん、その「何か」に意味を見出すのは自分だけだ(また、そうでなくちゃいけない)。
でもときどき、そんな記事についてコメントやアンサー記事をいただくことがある。極めて個人的なものであるはずの「何か」が、読んでくれた別の誰かの極めて個人的な「何か」に触れた、ように感じる。
何かをgive(与える)するなんておこがましいけれど、そんなふうに「極めて個人的に」何かが伝わり、何かが返ってくる。
誰のためでもないものが、結果的に誰かの何かに触れる。
なんというか、それはもうほんとうに素敵なことです。
そしてもちろんその逆も。
2014-04-17 08:50
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