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違和感の国 [Thoughts]

「まず出来ますと答える。それから対策を考える。それがプロだ」
「出来なかったら?」
「出来るかどうかじゃなくやるかどうかだ」



「ビジネスの現場では、喫煙所などでの非公式な会話で重要な決定が成されたり、決定的な情報が伝えられたりすることが多々あります。そこで彼は喫煙者でないにも関わらず、できるだけ喫煙所に足を運ぶよう心がけています」



「お前は人の三倍努力しないと人並みにできないのだから」
 →本当に三回やり直しているのだということを知っていただろうか。

「あなたは努力さえすれば人よりもできるのだから」
 →そのためには五回やり直すのだということ想像してみただろうか。



彼らの話はあらゆる意味でロジカルだ。
すべてに答えが用意されている。
すべてが説明されている。
どんな疑問に対しても即座に明快な答えが返ってくる。
一片の迷いもない。

彼らの言葉をアウトラインにしてみる。
どこにも破綻がない完璧なアウトライン。
「未整理」に入る項目がない。

つまり、希望がない。

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投射された影の気配 [Thoughts]

あなたが文章を書く。
公開する。
何人かが「いいね」と言ってくれる。
陽の当たる文章。

陽の当たる何かには陰がある。
あなただけがそれを知っている。
それは古い傷のかすかな痛みだったり
心を横切る強い感情だったり
知られたくない弱さだったり
理不尽で攻撃的な何かだったり
するかもしれない。

陽の当たる文章の中で、
それが言葉にされることはない。
ある種の礼儀として。
あるいは自己防衛として。
あるいは無意識に。

でも、書きながら影の存在を感じていたなら、
いかに画面から消したところで、
その気配は文章に投射される。
それは「補助線」のようなものなのだ。
私たちはその気配を感じることになる。
少なくとも、折に触れて何人かが。

とても不思議なことに、
その「気配」こそが
文章の魅力として認識されることがある。
陽の当たる側の「情報」だけでなく、
影側にある何かをもっと知りたい、
触れてみたいと感じるときだ。

Inspired by 闇と光、または不健全なアバター

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いつでも受け取れる、いつでも持っていかれる [Thoughts]

電車の中で、「だって結婚ってコスパ悪いじゃない?」みたいな(ありがちな)主張が聞こえてきたけど、あなたはそもそも人生という途方もなくコスパの悪い船に乗ってしまっているわけだし。

なにも結婚に限った話じゃなく、「差し出したものに対して受け取るもの」という基準で評価したときに「コスパがいい」ものが、果たしてどのくらいあるだろうか。

それは、ほんとうはとてもとても特殊な、狭い世界での基準にすぎない。
(騙されてきたのかもしれないよ?)

人生の多くの場面では、いつでも何かを受け取れる(かもしれない)。
その分何かを取られるとは限らない。

そしていつでも何かを持っていかれる(かもしれない)。
その分何かを得られるとは限らない。

そのことを理解した上で、求めたり守ったりする(ことができる)。

それを希望という(きっと、たぶん)。

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有効に活用しない自由 [Thoughts]

電車やバスに乗っている間、何もせずにぼうっと流れていく風景を眺めながら満ち足りた気分でいられるというのは、とても幸福なことだ。

目的のない時間をすべて有効で生産的な目的に活用しなければならないという強迫観念は、少しでも遊んでいたり今日的な意味で充分に収益をあげていない土地や空間を、有効で生産的な目的に活用しなければならないという強迫観念と似ている。

(その結果、好きだった場所がどんなふうになってしまったかは)

土地の活用は、自分の意思や希望だけではどうにもならないこともある。制度や大きな流れには抗えないこともある。

でも、自分の時間の使い方ぐらい自分で決めていい。

目的のない時間を有効に活用する自由(とその必然性)があるのと同じくらい、有効に活用しない自由(とその平凡と即興)がある。

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九歳のフリーライティング [Thoughts]

一年生から五年生の二学期までアメリカに住んでいて、その間平日は現地の公立学校に通い、土曜日だけ日本語学校に通った。日本語学校では日本の教科書を使い、日本から派遣された先生が授業をした(かなり大変な仕事だと思うし、今でも感謝している)。

週に一回だから授業内容を完全に網羅するわけにはいかず、理科の実験なんかは省かれてたけど、かなりきちんとした「日本風」の授業だった。そのおかげで帰国して日本の学校に編入したときのカルチャーショックはかなり少なくてすんだ。

そして国語の授業にはもちろん「作文」もあった。



作文が大の苦手だったのは、「頭に浮かんだことをそのまま書けばいい」と言われて本当に頭に浮かんだことをそのまま書くと、きっと書き直しになるとわかっていたからだ。



「海」(再現)

バスがトンネルをぬけると海が見えてきました。
みんながかんせいをあげました。

(いいね)

ぼくだけかんせいをあげませんでした。
ぼくはいつもそうです。

(あれ)

ぼくは海が好きです。
海が見えてくるのを楽しみにしていました。
いちばん好きなのはさいしょに海が見えるときです。

(よしよし)

みんながかんせいをあげているのを見て
ぼくもかんせいをあげなければいけないと思いました。
ぼくもみんなのようにかんせいをあげたいです。

(あれあれ)

かんせいをあげる人は
海がとても好きなんだなあと思いました。
ぼくはあまり海が好きではありません。

(あれあれあれ)

みんなでうたをうたうこともぼくは好きではありません。
ぼくはうたを聞くことが好きです。

(??)

海は広いなあと思いました。
ぼくは海が好きです。

おわり

(!)



そしてやっぱり書き直しになった。
なるさもちろん。

でも、「順番が」とか「ねじれてる」とか「あれとこれは別の話」とか言われても、そのときはとても困った。思考はまさに一連のものとしてこの順番で進んだのだから。



今なら容易にわかるけど、これはフリーライティングみたいなものなのだ。

一連の思考の中に、いくつかのコアとなるアイデアが現れている。それをひとつひとつ選り分けた上で、どれかにしぼる必要があるのだろう。

当時のぼくにはどうしたらそんなことができるのか想像もつかなかった。「やり方」があるのだということさえ。

その「やり方」の例をはじめて具体的な形で見せてくれたのは、おそらくデボラさんだ。デボラさんについては以前「知的生産と能率の風景」という記事で書いたことがある。



それはそれとして、今考えるとこの作文は、自分という人間が夏休みに海にバス旅行に行ったときの体験と気持ちを実に総合的かつ多面的に表現できている、気がしなくもない。

そして海は好きなのか好きじゃないのか。

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渾然一体となった小さくて名前のない自負 [Thoughts]

以前の職場のちょっとエライ人とのお酒の席で「Tak.君が今まで関わってきた仕事でいちばん誇りに思っているものは?」と問われたので、具体的に名前を出して言えるようなものは特にないと答えた。

「それは自分を卑下しすぎてるんじゃないか。がんばってるんだからもっと自信を持ったほうがいい」と言われた。

またあるとき、新入社員とのお酒の先で「Tak.さんが今まで関わった仕事でいちばん誇りに思っていることは何ですか?」とやっぱり問われたので、具体的に名前を出して言えるようなものは特にないと答えた。

ちょっと困ったような触れちゃいけなかったようなとても微妙な顔をしていた。



でもそれは自負がないわけでもないし、もちろん卑下しているわけでもない。

自分なりに自負していることはもちろんちゃんとある。ただそれは名前をつけて人に提出できるような性質のものではないというだけだ。

たぶん、ほんとうに大変なことや、ほんとうに重要なことには名前がない。

それは、名前のない無数の小さな行動や、名前のない無数の小さな感情や、名前のない無数の小さな障害や、名前のない無数の小さな後悔や、名前のない無数の小さな挫折や、名前のない無数の小さな闘いや、名前のない無数の小さな達成が、渾然一体となったものだ。

つまり日々を乗り切っていくことだ。あるいは生きるということそのものだ。そのことを、十年とか二十年のスパンの中で望んだ六割でもできたなら、それは充分自負に値することだ。

ましてその中にあって、自分自身を見失わずにいられたなら。そして(今のところ)「本当には」負けずに来ているのなら。



というようなことをいうと誤解を招くけど、もちろん仕事だってそこには含まれている。その渾然一体となった小さくて名前のないものの中から「自分の仕事」は立ち上がってくるはずだ。



d( ._. )b

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理由もなく説明もできないもの [Thoughts]

理由もなく説明もできないけど惹かれるものというのがあって。

個人的にあげるなら、
たとえばそれは
バスや路面電車が行き交う様子だったり、
市場やスーパーで行き来する人だったり、
坂道の多い街並みだったり、
人のいない元旦のビジネス街だったり、
70年代の殺風景なオフィスビルだったり、
夜中に誰かの家から窓越しに漏れてくる灯りだったり、
キーボードをリズミカルに叩く音だったり、
美しいアウトラインだったり、
整理されたファイルキャビネットだったり、
分厚いリングのバインダーだったり、
万年筆で書いた文字だったり、
台所から名もない料理が生まれる様子だったりする。

自分のしていることが正しいのかどうかわからなくなったら、思い出すといい。
理由もなく説明もできないものは、自分の本質に近い何かだ。

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時間の有限、階層の次元 [Thoughts]

時間は短期的にも長期的にも有限だ。

短期的に有限というのは「一日の時間には限りがある」という意味で。長期的に有限というのは文字通り「人は必ず死ぬ」という意味で。

タスク管理はともすると短期的な有限のことばかり意識してしまいがちだ。いかに達成するかとか、いかに優先順位をつけるかとか。

でもアウトライン・プロセッシングが教えてくれることは、ある階層での記述の本当の意味は、より上位の階層から見ることではじめて理解できるということだ。

階層は上位から下位まで無限につながっている。そして下位の階層で起きることはなんらかの形で上位の階層に影響を与える。どこかの階層だけを切り離して考えることはできない。



手をつけにくい複雑なタスク、面倒なタスクは手をつけやすい小さなタスクに分解するといい。これは(真理だと思うけど)アウトライン的に考えると「ひとつ下位の階層に降りていく」ということだ。

これで達成はしやすくなるけれど、たぶんそれだけでは足りない。このタスクを実行することの意味は、むしろ上位の階層に上がってみなければわからないからだ。

今日はいろいろと中断が入る中で複雑で面倒なタスクを達成した。そのことを一段上位の階層、たとえば「今月」のレベルから見たら、それは「今抱えているプロジェクトが一段階進捗した」という意味を持つかもしれない。そのさらに上位、たとえば「今年」のレベルから見たらそれは「昇進に一歩近づく」という意味を持つかもしれない。そんなふうに、どこまでも階層を上がって位置づけていくことができる。

階層は理論的には無限だけど、時間は短期的に有限なだけでなく長期的にも有限だから、実際的には最上位の階層が存在する。それを「人生」という。

今日やったことの意味を最終的に規定するのは「人生」だ。今日やったことは、確実に人生全体とつながっている。

アウトライナーを操作して、末端の小さな変化がアウトライン全体に影響を与える様子を目の当たりにすると、このことをいやでも実感する。



そしてもう一度、今日いろいろと中断が入る中で達成した複雑で面倒なタスクのことを考える。さっきまで感じていたそこそこの達成感についても。

それでもやはり今日は人生の中でも価値ある複雑で面倒なタスクを達成した日かもしれない。でももしかしたら今日はひさしぶりにつくったお昼ごはんを「おいしい」と言ってもらえた日、あるいは冬の東京の夜、きりっとした冷たい空気の中を一人でどこまでも歩きたいと思った日かもしれない。



というようなことを書きながら、人生の中の今日という日が終わるよ。

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他人の言葉によって作られている一部分 [Thoughts]

中学生くらいの頃、ある奥様に「Tak.くんはどんな女の子が好きなのかしら?」とか聞かれて「良い言葉を使う人」と答えたら「あら、若いのにロマンチストなのねえ」と笑われた。

それ以上うまく言葉にできなかったので「(. . )」となり、心で「( - -)ψ」と思った。

というか、なんでそんな答えをしたのだか。



たとえばの話。

人と話しているとき、今あなたが口にした言葉にはとてもとても「力」があると言いたい衝動にかられることがある。

ここで「力」というのは、否応なく頭の中で反芻し、咀嚼し、実際につぶやいてしまうという意味で、物理的なものだ。

それは多くの場合特に立派だったり刺激的だったりするわけではなく、単に個人から個人に向けて日常的に瞬間的に便宜的に実用的に口にした言葉、ようするにごく普通の言葉だから、言葉の主は今自分が口にした言葉にそんな「力」があったなんて夢にも思わない。

こちらも何も言わない。

でも、そういう「力」のある言葉というのは確かにある。

その結果として自分の中のある一部分は「他人の言葉」によって作られているという実感がある。

折に触れて誰かが口にした「力」のある言葉を何度も思い浮かべ反芻するうちに、あるものは自分の中に根付き、自分自身の言葉になる。

他人の言葉のリズムやメロディを自分のものとして取り込む中で、もともと自分の中にあった言葉のリズムやメロディも少しだけ変化する。すでに書かれている文章に新しい言葉を組み込むときと同じだ。

そのプロセスの中で、自分自身も少しだけ、しかし確実に変化する。

だから、長い年月のうちには自分の中の相当部分が他人の言葉によって(結果的に)作られていることになる。

「力」にはもちろんポジティブなものもあればネガティブなものもある。だから良い言葉を使う人のそばにいることはとてもとても重要なことだ。ロマンチストであることとはあまり関係がない。



と、30年後の今ならば説明することだろう。



「そういうのをロマンチストというんだ」

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ランダムネスを愛でることができるならば [Thoughts]

今書いていることが去年書いたこと(あるいはついこの間書いたこと、あるいはついさっき書いたこと)とぜんぜん違うじゃないかと自分で呆れるとき、きっとこのことに救われるはずの誰かについて思う。

文章を書いていると、思考というものがいかにランダムで一貫性がないかということがよくわかる。そして、あちこちひねくり回しているうちに浮かび上がってくるランダムではない何かがある(かもしれない)ということも。

ランダムネスの中から結果的に浮かび上がってくる(かもしれない)ものこそがコアなのだ。それは自分にとっても予測がつかない。想像がつかない。説明もできない。

自分というものはボトムアップでオープンエンドだ。ランダムネスを愛でることができるならば。

説明が求められるときに自信を持って主張できる、明日になっても変わらない信頼できる自分というものが存在しないことを悲しく残念に思っている、いつかの誰か。

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