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変化と継続、集団と個人、トップダウンとボトムアップ [Diary]

変化する中で何かを続けることとか、集団とひとりの関係とか、そんなことをここのところずっと考えている。一日中頭から離れないというわけでもないけど、頭の右隅あたりに常にある感じ。

たぶん、ひさしぶりに「冬のどどんが団」のコンサートを観たから。いつものことだけど、彼らを見るとほんとにいろんなことを考える。



冬のどどんが団は、南町田を拠点とする和太鼓グループ(古くからこのブログを読んでいただいてる方はきっと知ってる)。

はじめて冬のどどんが団を見たのは確か2008年のこと(七年も前だ)。

そのときは職場の同僚Z子が属しているというだけの理由で(正直さほど期待せず)観にいった。しかし結果として当日悪かった体調もふさぎがちだった気分も吹き飛んだ上に二週間くらいどどんがロス状態になるくらい、「人生の中の無駄ではない一日」だった。

初めて見たときのオープニングは今でも忘れない。「トンネル抜けて」という曲は、メンバーひとりひとりのソロで構成された曲だ。冒頭、会社にいる姿しか知らなかったZ子のソロにいきなりやられた。文化祭的手作り感と音とのギャップ。そして次々出てくるメンバーの雑多感。なんだこの集団はと思った(笑)。

冬のどどんが団の演奏は、いわゆる「和太鼓」のイメージとはずいぶん違う。たまたま和太鼓という楽器を使って演奏される何か別のもの、のような印象を受ける。

曲はほとんどが団長・ほしのあきらさんのオリジナル。組曲形式の壮大な曲からかわいらしい曲、そして曲本体よりネタの方が長い(?)曲まで多数。それを、上は還暦(当時)の団長から下は中学生まで幅広いメンバーが演奏する。

いちばんやられてしまったのは、そのあらゆる意味で(いや良い意味で)雑多なメンバーが醸し出す音の不思議な揺れというかうねりみたいなものだった。いまだにこれをうまく言葉にすることができないのだけど。

彼らはプロではない。日々の生活の合間の時間を使って演奏活動をするアマチュアだ。決して演奏的に完璧というわけじゃないし、もっと上手い演奏はあるだろう。でもその不思議なうねりは、他のどこでも耳にした(目にした)ことがないものだった。

それ以来、コンサートやライブには可能な限り足を運ぶことに決めている。



たぶん、雑多なものが組み合わさってひとつになってるものに弱いのだ。

ちなみにこのブログを始めるきっかけのひとつが、そのときのコンサートのレビューを書くことだったのは公然のヒミツ。



この何年か、演奏活動の回数自体は減っていた。ライブハウスへの出演や招待されての細かい演奏はあったけど、正式なコンサートは五年ぶりとのこと。ずいぶん久しぶりなのだ(ぼく自身、彼らの演奏を聴くのは二年ぶりくらい。そもそもコンサートのタイトルが「お久しぶりね」だ)。

最初に見た2008年からは、もちろんいろんなことが変わっている(七年もたったんだからそりゃ変わる)。

同僚だったZ子もぼく自身も、既に当時の職場を離れている。その変化をもたらした時間は、もちろんメンバー全員に流れている。

当時二十人以上いたメンバーは、今では十人ちょっと。時間が経ったんだから当たり前だ。

時間がたてば人生は前に進むし、前に進んだ先と、続けることが相容れないことだってある。受験とかサークルとかデートとか社会人とか結婚とか残業とか家族とか出産とか体力とか。

当たり前のようにそこにあって普遍的だと思ってたものが、実は一時的なものにすぎないということとか。与えられた時間に全てを納めることはできないということが次第に明らかになってきたりとか。

さらに、太鼓を巡る環境も、年々厳しさを増している。「音」の問題で、練習場所を確保することもままならないということ。

そういう変化の中で、みんながそれぞれの現実を抱えながら、集団であり続けること、その中でそれぞれの役割を果たし続けること。時間を割いて練習し、とびきりの笑顔で叩いたり揺れたり跳ねたりすること。

それは、けっこう大変なことだ。

そして、そのことを時間の経過の中で(現実的にリアルに)実感しているメンバーと、きっとこれから(今よりリアルに)実感するメンバーがいっしょにいる。もちろんそれは善し悪しではなく、単にそういう違いがあるというだけ。

その違いの中で、ひとつのものを作り、表現する。そのこと自体にいろんなことを思う。



今回は、少し大人の冬のどどんが団。

今までのコンサートが3時間・3部構成だったのを1時間半の2部構成に圧縮。そしてお約束のネタがほとんど入らない(いやちょっとは入ったけど)。そのかわり、演奏の完成度はすごく高かったと思う。

以前と比べるとメンバーの女性比率が高く、パワーという面では確かに落ちるけど(それでも目の前で聴けばけっこうお腹に響く)、一曲一曲が丁寧に仕上げられてる感じ。

たぶん、今の状況の中でできることをいちばんよい形でやろうという気持ちがあったのだと思う。

「もう一度原点に戻ってつくし野でシンプルな手作りコンサートをやろうと。だって今年の10月で二十一年ですからね。」(「団長あいさつ」より)



たぶん、そういう状況の変化に対応してのことだろうと思うけど、今回のコンサートの前にオリジナル曲の整理が行われた、とのこと(と、MCで発表された)。

五十曲以上あった曲を、常に演奏する定番曲に絞り込むための団員投票を行った。その結果、長年演奏されてきた曲の何曲かが定番曲から外れた。

外れた曲のひとつ「がさなたむたむ」は、大好きな曲だった。自分にとっては冬のどどんが団を勝手に象徴する曲。ゆるーく始まって一気にフォーカスする感じも、楽しさも(変な曲だけど)。

でも、これも変化の流れだよね。と、少し感傷的になっていたら、アンコールで演奏された別の曲の途中にその「がさなたむたむ」の一部が突然挿入された。

泣かせるじゃん。



今思うのは、自分は偶然に冬のどどんが団の(ある意味での)ピークの時期を体験してしまったのだということだ。

でも、その当時からこの(良い意味で)バラバラな集団が、おそろしいくらい微妙なバランスで成り立っていることは感じていた。あまりにも微妙ではかない危うい感じで、見るたびに今度が最後かもしれないくらい思っていた(ごめんなさい)。

だから毎回「また会えた」と思う。

「他人と「今」を共有できる瞬間があるということに最大限の感謝をすることしかできませんもの。その感謝を形にして表さなければいけない、それが「今を共有」することを持続させる唯一の方法です。どこまで出来るか出来ないか。」(「団長あいさつ」より)



昔から、個人的にいちばん苦手なものもいちばん憧れるものもいちばん縁がないものも集団。冬のどどんが団を見ていると、いつもそのことを思い出す。

たぶん、自分の中の集団との関わりを求める部分が刺激されるのだ。簡単にいえばちょっとうらやましく(くやしく)なったりする。

でも同時に思うのは「個人」ということだ。ひとりきりの、個人。

団長や打頭が号令をかけたってそれだけで何かを作ることはできない。誰かひとりががんばっても、誰かひとりの意思があっても、集団は成り立たない。いや成り立つかもしれないけど、素敵な何かを生み出すことはできない。ひとりひとりのあり方が、全体に無視できない影響を与える。

集団を維持する中で、ひとりひとりもまた変わっていく。一度コンサートを終えれば、全員が少しずつ別の人になっている、はずだ。そしてそのひとりひとりがまた全体に影響を与える。

トップダウンとボトムアップの繰り返しで生まれるもの。

まるで、何かみたいだ。

冬のどどんが団

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祈り、呪い、パンケーキ [Diary]

事情があって、ある人生の大先輩と話こむ。ファミレスで、四時間近く。

(20年ぶりくらいに「ジャンバラヤ」というものを食べたさ。それにパンケーキも)

といってもほとんど話を聞いていただけ。いろいろ思うところはあったけど、反論も意見もできる限りせず、ただ聞き続ける。

それでもまだ表面をかすっているようなものだと思う。うわずみみたいなものだ。

その奥に、長年の間体の中に蓄積され凝固したどこかで外に出すべきだった言葉たちの存在を感じる。

どうしてこんなになるまでその言葉は放置されてきたのか。

その責任の一部はたぶん自分自身にもあるのだろうと少し思い、いやそれは誰かに責任があるようなものではないと思い直す。



ここのところずっと考えていること。

祈りについて(宗教的な意味での祈りとは違うと思うけど、祈りという言葉を使わざるを得ない)。

たぶん、生きる姿勢に深く根ざした言葉のうちあるものを祈りといい、あるものを呪いという。

そして言葉とはエネルギーだから、呪いの言葉を相殺するのは同じだけの祈りの言葉だ、と思う。

でもそこにある呪いが個人の力ではどうにもならないくらい強力だったとき、何ができるだろう。

やっぱり呪いの言葉を相殺できるくらいの強力な祈りの言葉をつくることなのだろうか。

わからない。



フリーライティングについて考える。

自分のいちばん奥の深いところをにある言葉を形にしてみること。そして編集してみること。

最初に出てくるものはきっとうわずみだ。でも何度も書き出し、編集を繰り返しているうちに、そこに何が現れてくるか。



祈りとは言葉を形にしてみることからはじまる、と思う。でもそれは呪いだって同じことだ。だとしても、形にしてみることが必要なときもある。



形にされるべきときに形にされず、体のなかに止まり続ける言葉には毒がある。

言葉の毒は、長い時間をかけて人を蝕んでいく。時にそれは呪いと区別がつかない。



でもそこにあるのは決して呪いではないと信じている。呪いとパンケーキはきっと相性が悪いはずだから。

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同じネタの差分、日記に書かれないコア [Diary]

最近あるきっかけで、自分でもすっかり忘れていた数年前のエントリーを数ヶ月分読み直してみたら、呆れるくらい同じことを繰り返し書いていた(うすうすわかってはいたけどちゃんと確認したことはなかった)。

ついこの間のエントリーでも、ほとんど同じことを書いたものが2009年にあった。他にも3回4回と繰り返しているネタがいくつかある。別に使い回しをしてるわけではなく、毎回新鮮な気持ちで書いてるんだけど(以前書いたことを忘れているともいう)。

そして興味深かったのは、同じネタを扱ってるエントリーの同じでない部分。その「差分」に着目すると、この数年間に自分が何をなくして何を得たのかということが、ありありとわかる。

それを知ることは、もしかしたらすごく意味のあることかもしれない。良くも悪くも。



こういう役割って本来は「日記」が担うものだ。でも人に見せる前提で書かれた文章には、不思議なことに「日記」には決して書かない自分のコアに直結するようなことを書いていたりする。

それはおそらくリズムとメロディを編集すること、そして「伝えたい」にとても近いけど少し違うある種の意思の存在に関係しているはずだ。

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残り時間の感覚 [Diary]


末期ガンの告知を受けたオリバー・サックスさんの言葉をレオ・バボータさんが引用している。

「突如として物ごとがくっきりと見えるようになる。重要でないことをしている時間はない」

まさに「フォーカス」だ。



inessential(重要でない)なことをしている時間なんかないのは誰だって同じだし、そのことは誰もが頭ではわかっている。でも不思議なことにふだんの生活の中でそれを実感しながら生きることはとても難しい。

考えようによってはinessential(重要でない)なことをすることがいわゆる「生活」なのだとさえ言える。それを切り落とすことは、通常かなりの勇気と気力、そして覚悟が必要になる。

そしてある日、「残り時間」が具体的な事実(そして数字)とともに明白になったとき、本来の優先度が鮮やかに劇的に意識に上る。



ふだんの生活の中で「残り時間」を意識する方法のひとつは、自分がこれまで生きてきた中で忘れられないポイントを思い出し、そこからの現在までの時間を未来に当てはめてみることだ。

たとえば成人式の日のことはよく覚えている。面倒だったけどいちおう式に出た。ゲストに田中康夫さんが来ていて、なぜか壇上で中学時代の同級生と対談した。だるいので式の途中で抜け出して彼女と落ち合ってお茶を飲んだ。

スーツを着てネクタイを締めて彼女と会うのが気恥ずかしかったのを昨日のことのように覚えているし、その日から今日までの時間を実感することができる。

それは26年前のことだ。

その時間感覚のベクトルを未来に向けて、同じだけの時間が流れたとすると、自分は何歳かということ(そしてその年齢の自分が将来存在する保証などまったくない)。

もうひとつは、自分が好ましく覚えている瞬間をあと何回経験できるか、冷静に考えてみることだ。

五月の晴れた日に、ふたりで木陰に座って上空を通過していく飛行機を数えて過ごしたことは、なんてことない人生の一日だけど、同じことが生きてる間にあと何回できるか

たぶん驚くほど少ない。



結婚したばかりの頃、いろんな事情で奥さんと離れて暮らしていたことがある。別にけんかして別居したわけではなく、自分の力ではどうにもならない事情で。

毎日会社から夜遅く真っ暗な部屋に帰ってくる。ひとり暮らしだとか単身赴任だとかなら自分の選んだことだとも思えるけれどそうではなく、そしてその状態がいつ解消するのか予想がつかないというのは、なかなかに身にこたえた。もちろん彼女の方だって大変な思いをしている。

現状を改善することもできず次に進むこともできない。文字通り身動きできない。そんな状態が一年以上も続いていた。

無力感といってしまえばとても簡単だけど、そんな明快な言葉を当てはめる気持ちにもならない。

電車の中でつり革につかまりながら何か考えなければと思うけれど、帰りは遅く朝は早く洗濯物はたまり定食屋は閉まりたまには息抜きしろよと連れて行かれたキャバクラで女の子と口論になってつまみ出されたとか。



「どうするの?」とMちゃんに聞かれても「どうしていいかわからない」としか答えようがなかった。そこは渋谷のハチ公口の近くにある喫茶店で、状況を知ったMちゃんがお茶に誘ってくれたのだった。

Mちゃんはもともと奥さんの親友だけど、何度か会っているうちにぼくはMちゃんが大好きになった。

話ができる相手はそのときMちゃんしかいなかった。少なくとも「この話」ができる相手は他にいなかった。別に愚痴をいうつもりで会ったのではなかったけど。

久しぶりに会ったMちゃんは、前年に大きな病気をして手術を受けたとは思えないほど元気で、とても忙しそうだった。手帳にはびっしりと予定が書き込まれ、携帯はひっきりなしに鳴った。

ぼくが話している間、Mちゃんは一度も電話を取らなかった。「携帯いいの?」と聞くと、Mちゃんは電源を切った。



話の途中でMちゃんはいきなりぼくの手を取った。というより「腕をつかんだ」というのが正確だ。Mちゃんはぼくの腕をつかんだ。驚くほど強い力で、驚くほど熱い手だった。しばらく腕に跡が残ったくらい。

「自分が選ばなきゃいけないんだよ」とMちゃんは言った。



Mちゃんがこの世界からいなくなってしまった後で思ったことは、そのときMちゃんはたしかに「残り時間」の感覚を持って生きていたのだということだ。

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アンノウン [Diary]

聡明で優しいはずの(人生の先輩)二人が、人生の多くを共に過ごした相手に対する失望と諦めに飲み込まれようとしていたり。

その日常が、些細だけれど根深い苛立ちや怒りに支配されようとしていたり。

過去の保留された決断の重みに押しつぶされようとしていたり。

長い時間の経過や老いがもたらす総合的な負の側面は、もちろん今までにもずっと存在してきたもので、ただ自分に知られていなかっただけだ(そしてきっと今も知られていない)。

そのことを思うときの、もし大人でなかったら泣くという形で現れたかもしれないある種の感情は、すでに大人になってしまった自分によって表面的には形にならないまま処理される。

まだ、時間は与えられている。



「聞きたいことは、たったひとつだけ。もう一度私は愛せるか」 (※)

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すごく楽しくもない、特に刺激的でもない [Diary]

昨日の雪を見ていて思い出した、福井の夜の雪景色。



ひとり出張は、クライアントを接待することもないし、同僚と繰り出すこともない。ひとりで仕事先に行ってひとりで仕事をすませ、ひとりで食事してひとりでホテルに帰る。

すごく楽しくもないし、特に刺激的でもない。

~♪

ホテルの部屋で今日のメモを整理して明日の仕事の資料を揃え、明日の行程を考える。

昼過ぎから降り始めた雪は今では膝の上あたりまで積もっている。明日は午前中に金沢まで移動しなければならない。雪の中の不確実な移動もひとりで心配する。今日のうちに無理やりにでも移動しておくべきだったかなとひとりで思う。

特急の時刻をメモした紙と、明日の訪問先の地図をバッグの外側のポケットに入れる。レコーダーの電池を替える。ノートのリフィルを補充する。名刺入れに新品の名刺が入っていることを確認する。

(この仕事のお金はいつ入ってくるのかな)

それからホテルを出て雪の中を散歩する。こんな雪の中で普通に路面電車が動いているのが不思議。乗ってみたいと思うけれど、明日は早起きだから。

来る時に見つけておいたコンビニに行こうとするけど、雪のせいで思いのほか時間がかかる。靴の中に大量の雪が入って(雪素人)、明日もこの靴を履かなきゃならないことを思う。

20分くらいかけて目的のローソンにたどりついて、暖かい店内で缶ビールを二本買って、それからお菓子も(肉まんはがまんした)。

地元の女の子がひとりで雑誌を立ち読みしている。フリースにマフラーに毛糸の帽子。でも足元は素足にサンダル。いくら近所といってもこれが福井クオリティなのか(そんなことはないだろう)。ちょっと上気したような顔。

足、冷たくないですか?
と声をかけてみたりはしない。

~♪

そしてまた雪をかき分けながらホテルに戻る。コンビニの袋を持っている分、バランスが取りづらくて三回くらい転ぶ(雪素人)。

ホテルに戻り、すっかり濡れてしまった靴にティッシュを詰めてからシャワーを浴びる。足が真っ赤になっている。

シャワーから出てビールをあけてテレビをつけてみる。文脈がよくわからない地元局のバラエティ的な番組。

すごく楽しくもないし、特に刺激的でもない。

電話でTomo.さんと少し話して、
「やあ」
「やあ」
「なにしてた?」
「お風呂あがり」
「こっちも」
みたいな会話をする。

雪の中を路面電車が走る音がする。重くてくぐもった他の何にも似ていない音。

(この仕事のお金はいつ入ってくるのかな)



ちょうど11年前、2004年の1月のこと。

結果的にはその翌月からその後11年近くの間勤めることになる会社で(偶然)働き始めたので、たぶん特別に印象に残っている雪の福井の夜。

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海辺の町のハンバーグ(この人生の小さくて巨大であること) [Diary]

大学一年の秋、朝家を出て電車には乗ったものの授業に出る気にならず、そのまま終点まで行った。特にロマンチックな動機でもなく、ただ降りるのが面倒だというだけ。

授業だけでなくどんなこともする気になれなかった。同級生たちも授業もサークルもコンパもドライブもバイトも何も面白くなかった。何もやりたくなかった。やりたいことを探したくもなかった。



終点は海辺の町だった。ひとりで海岸沿いの道を歩き、ひとりで海のそばにある小さな山に登り、ひとりで気持ちのいい空気を吸い、ひとりで景色がよかった。

町の中心に戻り、商店街をひとりで歩きながらふと時計を見るともう一時を過ぎていた。朝から何も食べていなかったので、商店街のはずれで目に付いた喫茶店兼レストランみたいな店に入った。

ファーストフードとラーメン屋以外の店にひとりで入るのははじめてだった。ランチメニューのいちばん上にあった「ハンバーグセット」を頼んだ。

ハンバーグは少し時間がかかりますということだった。雑誌でも買っておけばよかったと思ったところで、前日に大学の生協で買った小説がバッグの中に二冊入っていることを思い出した。

特に読みたかったわけでもなく、休講の暇つぶしのために平台にあったのを適当に買ったまま忘れていた本。そもそも小説などというものをほとんど読んだことがなかった。強いていうならタイトルが気になっただけ。

一冊を取り出し、たまたま開いたページに「ハンバーグ」という文字があるのに目が止まった。

「ハンバーグ・ステーキの味は素敵だった。香辛料がほどよくきいて、かりっとこげた表面の内側には肉汁がたっぷりとつまっていた。ソースの具合も理想的だった。」

数ページ後でその短編は終わっていたので、初めに戻って読みはじめた。短編のタイトルは「バート・バカラックはお好き?」だった。ハンバーグの話ではなかった。でもハンバーグがとても重要な役割を果たしていた。

ちょうど最初に開いたページのあたりまできたところで、注文したハンバーグが運ばれてきた。

ハンバーグ・ステーキの味は素敵だった。香辛料がほどよくきいて、かりっとこげた表面の内側には肉汁がたっぷりとつまっていた。ソースの具合も理想的だった。

ハンバーグを食べ終わった後も、セットのコーヒーを飲みながらその短編を読み返した。ハンバーグがとても重要な役割を果たし、そして官能的な話だった。



店を出てもう一度、商店街を歩いた。地元の書店や文房具店をのぞいた。それから地元のスーパーも。

もう少し歩きたくなって、さっき歩いた海沿いの道に戻り、今度は海岸に降りてみた。海岸で本の続きを読んだ。

それは村上春樹という作家(名前だけは知っていた。まだ「ノルウェイの森」がベストセラーになる前の話)の「カンガルー日和」という短編集だった。

目次を見てタイトルに惹かれたものを適当につまんでは読み、疲れるとぼんやりし、またつまんでは読んだ。気に入ったものもそうでもないものもあった。鼻に付く文章だなと思ったものもあった。

とてもひとりで、とても自由だった。

気がつくとあたりは暗くなりかかっていた。そして、お腹がすいていた。さっきハンバーグを食べたばかりなのになと思ったけれど、もう三時間近く経っていた。

家に帰ろう、と思った。今日は家族は外出しているけど、ひとりで何か食べよう。食べながら本の続きを読もう。とてもひとりで、とても自由に。そして本はもう一冊ある。



帰りの電車の中でもう一冊を取り出した。それは「羊をめぐる冒険」というタイトルの長編だった。カンガルーの次は羊か、と思った。



この間Tomo.さんと海辺の街を散歩しているときに見つけたカツカレーのおいしいお店が、あのときのハンバーグのお店だったことに突然思い当たったとき、この人生というものの小さくて巨大であることを思った。

※引用は村上春樹「バート・バカラックはお好き?」、『カンガルー日和』(講談社文庫、101ページ)
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ノートを処分すること [Diary]

年末に、もう必要なくなった仕事用のノートを大量に処分した。過去十年分。同僚の中には目を丸くしてる人もいたけど(「自分なら賞状や記念品は捨ててもそれだけは捨てない」)。

「それ貴重品ですよね、見せてください!」と言ってくれた子がいたけど、見せたら三十秒くらい固まったあと一言「すごいですね」と言われた。



自分のためのノートに書かれた文字は、他人にはまず解読不可能だ。その上ページのど真ん中にナナメに3行しか書いてなかったりする。

ぼくの中の「人に読める字」を書く能力は、申請書類の記入と年賀状くらいでしか発揮されない(それだって読みやすいとはとても言えない)。



それでもノートを見て「字がきたない」とか「もったいない」とか叱られないので、大人になるというのはとてもよいことだ。



子どもの頃「ノートの上手な使い方」というものを教えられることがよくあった。いわゆる「できる子のノートはこうなっている」みたいな。

片側を必ず開けて書くとか、色の使い分けだとか、そこで紹介される「できる子」のノートは確かにぼくのノートとは違っていた。

でもそういうノートを真似してみても(真似しろと言われた)、無理に決まった場所に決まった書き方をしようとすると、借りてきたような自分じゃないような言葉しか書けなくなる。文字まで小さくなる。そして後から見返してもまず役には立たない。

何かしら意味があったのは、場所や形のことなんか考えもせず傍若無人に書きなぐったノート。そして「写経」のように本を書き写したノートだ。



それでも、どんなにきれいにノートが書ける子よりもノートという存在自体は好きだったと思う。

特に気に入っていたのは3リング式のバインダーだけど、学校では「きちんとした」ノートじゃないとダメだと言われた。バインダーならちゃんと使えるような気がしていたんだけど。



今では自分がどんなノートを使ってどんなふうに書くか好きなように決められるので、大人になるというのはとてもよいことだ。



アウトライナーフリークではあるけれど、基本的には紙とペンからは離れられない人間なのだと思う。

バッグの中には目的のないノートが入っている。

仕事をしてるときもブログを書いてるときも翻訳をしているときも、行き詰まったときに目的のないノートにぐしゃぐしゃと何か書くことで、ブレイクスルーできることがけっこうある。

自分にとってノートとは、フィジカルに手先を動かすことで頭を動かすための道具なのだ、たぶん。

それは書いたときには確かに意味があったけど、取っておいて何か価値が増すものでもない。たぶん。

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麻薬のような孤独と自由(だと思った) [Diary]

中学一年の頃、「遠くに行くこと」に取り憑かれた。

塾をさぼって駅前から適当なバスに乗って終点まで乗る。終点についたら、少しだけ歩き回ってまた同じバスに乗って帰ってくる。

バスの窓から見える空は夕焼け。
知らない街並み。
ちょっと駅から離れればいたるところに残っていた原っぱ。
風に揺れるススキ。

その孤独と自由な感じが忘れられず、行動はエスカレートした。地元駅のバス停から乗れるバスで満足できなくなり、電車に乗るようになった。

鶴見線に乗ってコンビナートの見える埠頭へ。
京急に乗って逗子の海岸まで。
地元の電車では満足できなくなり、
横浜線で八王子、南部線で立川、東急田園都市線でつきみ野、相鉄で海老名。

学校が終わってから夕食までの間に行って帰ってこられる範囲はほとんど制覇し、やがて日曜日のたびにどれだけ遠くに行けるか。

小田急線で江ノ島、小田原。
京王線で高尾山。
西武線で秩父。
国鉄で青梅、奥多摩。
銚子、館山、安房鴨川。

強風が吹き付ける冬の銚子駅で誰もいないホームでひとり帰りの電車を待つ時の感じ。

え、そんな資金がどこから出た?
まったくもって自慢できる話ではないので、想像してください。

でももちろん、その孤独と自由は帰る場所がある前提のものだ。

どこまでいってもぼくは恵まれた家庭に育ち、守られていた。その中での孤独と自由。自分はまだ子供にすぎないのだという、逃れようのない現実。

「帰る場所がある」ことの意味、「守られている」ということの意味。

そして、おそらく家族はその行動を(そして資金源を)分かっていながら黙認しているのだということに気づいたとき、中毒症状は突然終わった。

クラスの女の子を好きになって、生命エネルギーがそっちに向いたということもある、かもしれない。

でも、今でもあの麻薬のような孤独と自由(だと思った)の感覚は、生々しく残っている。

そして気がつくと、横浜駅のバスターミナルで、目についたいちばん魅力的な行き先のバスに乗り、終点で降りてぶらぶら散歩してみたいなあ、とか思っていたり。

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 [Diary]

昔から繰り返し夢で見る風景がある。
真っすくな道をひとりで海に向かって歩く風景。

道の先には海がある。
時刻は夕方。
水平線にかすかに夕焼けの名残がある。
西からの強い向かい風。
潮の匂い。

たぶんぼくは子どもだ。
そして、自分がひとりであることを知っている。



大切な人と手をつないで歩くとき、
その風景を忘れずにいられるかどうか。

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