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ハロウィンとは無関係な老人と古き良き時代の終わり [Diary]

週末、初めての駅で降りて商店街を散歩していたら(趣味)、ハロウィンのイベントをやっていた。子どもたちが仮装をして商店街の店を順に巡る。それぞれのお店ごとにお菓子などをもらえるらしい。

自宅の近所では最近ちょっと見たことのない数の子どもたちを見ながら、衣装もぜんぶ準備するんだよなあ、親御さんは大変だよなあとか思いつつ、でも子どもたちは楽しそうだよなあなどと思いつつ、でもきっと何人かはいるに違いない、楽しそうな顔をしながら内心ちょっと居心地悪く思っている子どもに共感と連帯。

しかしとても不思議に思えるのは、これが昼間だということ。
ハロウィンと言えば夜だよ。



ハロウィンというものを初めて知ったのは、70年代のアメリカの小学校だった。

「アメリカにはカボチャのおまつりがあります、お化けやヒーローの仮装をしていろんな家をまわってお菓子をもらいます」なんて祖母に手紙を書いたのを覚えている。

当時、日本で「ハロウィン」というものはほとんど知られていなかったと思う。それが今や。

(※ハロウィンはカボチャのお祭りではありません)



初めての年は確か1976年で、ぼくも両親もシステムがよくわからず、とにかく仮装をするらしいということで、母が古いトレーナーにカボチャの刺繍をしてくれた。

暗くなってから近所の子ども何人かと連れだって界隈の家を回り、「Trick or Treat」をやる。小さい子はだいたい年長の子にくっついていって、やり方を学ぶ。そして翌年には年下の子に同じように教える。そうして受け継がれるシステム。

最初の年は年少な上に英語もまだあんまりわからなくて、とにかく友だちの動作を真似て友だちの発する音を出す。するとちゃんとお菓子がもらえた(音を発することとその結果によって言語の回路が形成されていくのだ)。

ただし、カボチャの刺繍入りトレーナーについてはちょっとコンセプトが間違ってる感じがしたので(というかものすごく間違ってる感じがしたので)、翌年には郊外のショッピングセンターで正しい(?)衣装を買ってもらった。

当時のハロウィンは伝統的なシーツやお面をかぶったお化けの仮装がすたれ、テレビ番組やハリウッド映画のキャラクターの仮装が主流になりつつあった。

二年目はちょうど「スターウォーズ」の第一作が公開された年(1977年)だったので、ぼくも含めて誰も彼もがスターウォーズの衣装を着たがった。

光るライトセーバーは買ってもらえなかったけど、とにかく正しい(?)仮装でだいぶしゃべれるようになってきた英語も合わせて一人前になった気分(年下の子をリードさえした)。



そこはサンフランシスコのサンセット地区というところで、比較的治安のいいエリアだったとは言え、子どもたちだけで夜暗くなってから近所の知らない家の呼び鈴を押しても回るというのは、今考えるとけっこう大胆な気もする。

まだそれなりに古き良き時代だったのか。今は大人が同伴したりするのだろうか。あるいは当時も実は大人が隠れて警戒監視していたりしたのだろうか。

それでも、ハロウィンが近づくと学校で保護者向けに配られたプリントは、古き良き時代が終わりつつあることを示していた。

「もらったお菓子のうち、食べてもよいのは包装された市販のお菓子のみ」
「開封された形跡のあるもの、果物、ホームメイドのお菓子はもらっても決して口をつけないこと」



「Trick or Treat」にはひとつルールがあった。

子どもたちは好きに近所の家を回るのだが、呼び鈴を押していいのは例のカボチャをくりぬいて作ったランタン(ジャック・オー・ランタン)を窓辺に飾って灯をともしている家だけだということ。

ジャック・オー・ランタンは、その家がハロウィンという祭りに参加している(したがって子どもたちのためにお菓子を用意して待っている)目印なのだ。

当然、全ての家がランタンを灯して子どもたちの来訪を待ち受けているわけではない。



ランタンを灯してない家の玄関から顔を出したのは、まさに偏屈で孤独を絵に描いたような老人だった。

もちろんランタンを灯してない家には行ってはいけないのだが、たまたまその家の玄関は隣の家の玄関と紛らわしいつくりになっていて、間違えてしまったのだ。

それは、ハロウィンとは無関係な家なのだ。ダースベイダーもC3POもバットマンも誰も間違いに気づかなかった。

三回か四回呼び鈴を押して誰も出てこないのでおかしいなと思い、そういえばこの家ランタンないじゃん、何やってんだよ、最初に入ったのお前だろなどと言い合っていると、ドアの向こうでかちゃかちゃと鍵を外す音が聞こえた。

玄関がゆっくりと開き、痩せた老人が顔を出した。

今までTrick or Treatした家は例外なく、明るくて温かくて賑やかでフレンドリーだった。健全なアメリカの家庭だった。子どもたちを歓迎するために自分たちで仮装してる人だっていた。

でもその家は違った。中は暗く、何の音もしなかった。家の中からは湿った冷気とともに不思議な匂いのする空気が流れ出してきた。冷蔵庫に似た匂いだった。

老人の不自然なほど青白い顔には幾筋も深いしわがきざまれていた。外から微かに差し込む街路灯の明かりで余計そう見えたのだろう。暗い眼窩の奥の方にかろうじて濁った目を確認できた。



老人は玄関のドアに手をかけたまま、何も言わず、身じろぎもせず、こちらをじっと見ていた。

ダースベイダーもC3POもバットマンも「Trick or Treat」とは口にできなかったが、だからと言って黙って立ち去ることもできなかった。硬直したままずいぶん長い時間が流れた(気がした)。

老人は唐突にばたんとドアを閉めた。ドアが閉まってしまうと、もうその家に人の気配は感じられなかった。

すごく怖かったのに、なぜか走って逃げるというようなことは思いつかなかった。あの老人は本当に本物の老人だったのだろうか。誰からともなく(お面越しに)顔を見合わせた。

そして再び唐突に、しかも勢いよくドアが開いて全員が飛び上がった。

老人はしわくちゃのビニール袋をぼくの鼻先に突きつけた。目の前の毛深い腕の質感で本物の老人であることはわかったが、その分よりリアルに恐ろしかった。

思わず後ずさりしたけれど、よく見るとどうやら受け取れということらしかった。ぼくはおそるおそる袋を受け取った(位置的にぼくが受け取らざるを得なかったのだ)。

老人は何も言わずにばたんと玄関のドアを閉めた。中からがちゃがちゃと鍵をかける音が聞こえた。

ドアは二度と開かなかった。



そのビニール袋には誰も手を触れようとしなかったので、結果的にぼくが持って帰ることになった。

中には半分残ったハーシーの板チョコ(包装紙ごと割られている)、オレンジ色の飴玉が数個(包装してない、むき出し)、リグレーのチューインガム(スペアミント)数枚、そして胡桃が入っていた。

老人は幻覚でも亡霊でもなく、恐ろしい人でもなく、偏屈で孤独なのかもしれないけど普通のおじいさんだったんだと思った。



それで老人のくれたお菓子を食べたのかというと、やっぱり食べなかった。もはや古き良き時代ではないことをぼくは知っていたから。

オーバーヒート [Diary]

昔、暑い夏の日に車を運転していてエンジンをオーバーヒートさせたことがある。いくらアクセルを踏み込んでもふかふかして手応えがなく、いっこうに前に進まない。

それは中原街道を走っているときのことで、駐められそうな場所はないし、少し先に上り坂はあるしマズイと思ったところでちょうどガソリンスタンドがあったので事なきを得た。

それにしても、あのふかふか感は何にも似ていない、いやーな感じ。



いや、ひとつだけ似ているものがある。

何かをやろうという気持ちとそれができない状況がループする状態が長くつづいた結果、頭が飽和状態になってしまうとき。

まるでゴムが伸びきったような嫌な感じが、あの夏の日の中原街道の感触にそっくりだ。

だから、個人的にその状態を「オーバーヒート」と呼んでいる。



たとえば、割り込みによる中断が延々と何重にも繰り返されたとき。

Aをやってる途中に電話があって急遽Bをやることになり、はやくAをやらなきゃと思いながらBをやってる途中に呼び出されてCをやることになり、いかんいかんAをやらなきゃと思いながらCをやってる途中にBはまだかという催促が入り、CとBがしっちゃかめっちゃかになり、ようやくAに手をつけられるようになったときには頭が飽和状態になっている。

たとえば、複数のことを同時に処理しようとして処理できないまま、それでも複数のことを処理し続けようとしたとき。

Aをしなければいけないんだけど、Aをするためにはその前にBを決めなければいけなくて、Bを決めるためにはCの意見を確認しなければならなくて、Cの意見を確認するためには自分の意見を決めておく必要があって、でもはやくAをしなければならないので落ち着いて考えてる暇がなくて、どうしよう早くAをしなきゃいけないのに(あわあわ)、みたいなことをしているうちにやっぱり飽和状態になっている。

この状態になってしまうと、もう何もできない。いくらアクセルを踏んでも車は前に進んでくれない(覚えありますね?)。



もちろん、こうした場合に有効なテクニックはあるのだろう。

最初のケースであれば、何かに割り込まれてやりかけの作業が中断したら、中断したところをわかるようにマークしたりメモしたりした上で脇に置き、割り込んできたタスクの処置(その場でやるにしても断るにしても後回しにするにしても)に集中する。さらに別の割り込みが入っても、同じようにマークして作業中のタスクを脇におき、新たな割り込みタスクの処置に集中する。片付いたら脇に置いておいたタスクに戻り、マークしたところから再開する。それを繰り返す。

後のケースであれば、もつれて絡み合ったやるべきことを全部書き出した上で、一つ一つに分解する。物理的に手をつけられる順に機械的に並べ替える。並べ替えたら上から順に機械的に実行する。今実行していることだけに集中する。

ようするに、一度にひとつのことだけを前に置いて、集中することだ。

こういうときの頭の整理に、アウトライナーはとても有効だ(特に二番目のケースになんか絶大な威力を発揮するだろう)。



というようなテクニックは役に立つし、身につけているのといないのとでは大きな違いがある。

それでも、自分が毎回スマートにテクニックを駆使して切り抜けられるのかと問われれば、そんな自信はない。残念ながら。

月並みだけど、人生はマニュアルに書かれているテクニックがそのまま通用するケースばかりではない。どうすればいいのかはわかっていても、やっぱり時にはオーバーヒートを起こす(先週から今週にかけての自分がまさにそうだった)。



ここで言いたいのは、オーバーヒートしてしまったときは、エンジンを冷やすしかないということ。それも、アクセルふかふかの嫌な感じがしたら、なるべくはやく冷やすこと。

オーバーヒートしたまま、それでもアクセルを踏み込んで挽回しようなどと思わないこと。どんなテクニックも、どんなツールも、自分がオーバーヒートした状態では役に立たないのだ。

すぐに冷やせば、エンジンはまた回ってくれる。でも、熱によるダメージが一定程度を越えたら。どうなるかはここに書かれている。



今回は、なんとかうまくエンジンを冷却することができた、と思う。

きっとまた、エンジンは回ってくれる。

早急に、でも充分に時間を取って [Diary]

どうしても答えが出そうにないことや、
手に負えそうもない難しい問題も、
充分な時間を取って根気よく考え続けているうちに
なんとなく結論めいたものが浮かんでくるということがあって、
それはけっこうな確率で間違ってはいない
という経験則みたいなものがある。

その感覚は、
自分が四十年以上生きてきた中で手に入れた
価値のあるもののひとつだと思う。

今抱えている課題も
たぶんそのようにして立ち向かうべきものだ。

日々自分たちの生活をしながら
仕事に手を動かしながら
早急に、
でも充分に時間を取って
根気よく考え続けること。

長い年月をかけて
どうしようもなくもつれてしまったものに対して、
自分たちは何ができるのか。

書店の平穏な日々の最後の客 [Diary]

結婚したばかりの頃、3か月間だけ都内のアパートに住んでいた。

準備も何もなく短期間で劇的に環境が変わり(突然結婚、突然就職、突然大学院休学、突然実家から出る、突然初めての他人との生活、体調崩す)、あんまり甘い新婚さん的な感じではなかった。というかじたばたしていた。

その期間の記憶は断片的にしかない。都心の職場まで通う地下鉄の構内とか、気晴らしにひとりで自転車に乗って出かけた公園の風景とか、通勤途中に赤坂見附で見かけた女優の坂井真紀さんとか。

結局、体勢を立て直すために短期間で引っ越すことになったのだけど(その引っ越した先に今でも住んでいる)。



その時期の楽しみは、仕事帰りに地元の商店街の書店に立ち寄ることだった。

その書店は「町の本屋さん」としてはかなり大きい方で、岩波とかも揃っていて、しかも23時まで開いていた。つまり、かなりがんばっている本屋さんだった。

いろんなことがうまくいかなくても、紙の匂いと微かな黴臭さと古い空調の匂いが混ざったような昔ながらの「書店の空気」の匂いを嗅げば、5%くらいは忘れることができる(そしてそういう匂いのする書店は当時既に貴重だった)。

まして素敵な本を見つけられれば、少しの希望だって。



その日も仕事帰り、閉店間際の書店に入った。

その書店はBGMを流さなかったので「蛍の光」とかは流れてなかったけど(好ましい)、おじさんはもうレジを開けて売り上げを数え始めていた。

雑誌を何冊かめくり(書店の匂いを吸い込み)、ぶらぶらと店内を一周し(書店の匂いを吸い込み)、新書コーナーに仕事で必要な本が積まれているのを見つけて(書店の匂いを吸い込み)、レジに持っていった。「MacPower」も買おうかどうしようか迷って買わなかった。

おじさんは本にカバーをかけ、ゴムをかけ、「はい、どうもね」と言って渡してくれた。

書店を出て、筋向かい酒屋の自動販売機で缶ビールを一本買った(当時はまだ酒類を自販機で買うことができた)。後ろでおじさんがシャッターを閉める音が聞こえた。

アパートに帰って少し二人で話をしてシャワーを浴びてビールを飲んで、やっぱり「MacPower」も買えばよかったなと思いながら寝た。



書店が火事で全焼したことを知ったのは、翌朝の出勤途中だった。

商店街の手前からすでに焦げ臭い匂いが漂い、現場には立ち入り規制の黄色いテープが貼られ、書店は炭化した柱を残して跡形もなくなっていた(そのうえ、両隣の商店にまで延焼していた)。

そういえば夜中にたくさんの消防車がけたたましく通りすぎて目が覚め、どこだろうね、近そうだねと話していたのだった。

並んでいた本や雑誌や文庫本の表紙、小学館の学習雑誌ののぼり、レジ脇に置かれた夜間金庫の入金袋、発注用のスリップなどはみんな燃えてしまったのだなと思い、それからおじさんの「はい、どうもね」という声を思い出し、それからおじさんは無事だったのだろうかと思い、それからあの匂いは無くなってしまったんだなと思った。

それから自分はその書店の平穏な日々の最後の客だったんだなと。



そのすぐ後に、ぼくと妻は横浜に引っ越した。会社からもらった結婚祝い金(というのがあった)は引っ越し費用で使ってしまった。

全焼した書店がどうなったのかいつか確認しようと思いつつ、もうすぐ20年になる。

簡単にいえば、3か月だけ暮らしたその街のことを特に思い出したいと思わなかったし、思い出している余裕もなかった。

でも、その書店で買った本の何冊かは、今でも本棚に入っている。

今は再現できない種類のつながる意思(1989) [Diary]

初めての小さな駅で降りてみる。
売店で缶ジュースを買う。
踏切の脇から細い坂道を登っていく。
電車の音が次第に遠ざかっていく。
夏の終わりの蝉が鳴いている。
坂の上に大きな入道雲が顔を覗かせている。

しばらく登って息が切れてきたところで、
海の見える景色のいい場所に出る。
少し温くなったジュースを飲む。
風に吹かれる。

あの人の声が聞きたいと思う。
坂の途中で見つけた電話ボックスに入る。
テレフォンカードを入れ、番号を押す。
呼び出し音が鳴る。

(→誰も出ない)

一気に汗をかく。
くるぶしのあたりを蚊に刺されている。
ジュースの缶は電話ボックスに置いていく。

来た道を戻り、駅前を一回りしてみる。
バス乗り場とタクシー乗り場と小さな商店街。
商店街の本屋で適当な文庫本を買う。
喫茶店に入り、甘いアイスコーヒーを飲みながら読む。
他に客は一人もいない。
くるぶしがかゆい。

あの人の声が聞きたいと思う。
喫茶店の公衆電話に十円玉を三枚入れ、ダイヤルを回す。
呼び出し音が鳴る。

(→誰も出ない)

黒い雲が空を覆う。
激しい雨。雷と風。
傘は持っていない。
席に戻って本の続きを読む。
エアコンで汗が冷える。
ホットコーヒーにすればよかったと思う。
くるぶしがかゆい。
ぼんやり雨の商店街を眺める。

あの人の声が聞きたいと思う。
もう一度公衆電話に十円玉を三枚入れ、ダイヤルを回す。
呼び出し音が鳴る。

(→誰も出ない)

この近くに大学の同級生が住んでいたことを思い出す。
うろ覚えの電話番号を回してみる。

(→誰かが出る)

聞いたことのない女の声。
「もしもし? だれ? いたずら?」
何も言わずに電話を切る。
十円玉が二枚戻ってくる。

雨がさらに激しくなる。
商店街はもう誰も歩いていない。
あの人の声がとても聞きたいと思う。



誰にもつながらない夏の夕方の、
今は再現できない種類のつながる意思(1989)。

12年前 [Diary]

2003年の夏のある日、仕事の打ち合わせに向かう電車の中で、いつかやってみたい仕事についてぼんやりと考えていた。

誰よりもよく知っている(と思う)ことで、
誰よりも長く考えてきた(と思う)ことで、
誰よりも深く考えてきた(と思う)ことで、
誰よりも真剣に考えてきた(と思う)ことで、
誰よりもまず自分のためになることで、
誰よりも自分が楽しめて、
考えただけで気持ちが高揚して、
人の役に立つ(かもしれない)こと。

都営三田線の芝公園駅のホームで、ノートに「アウトライナーについての本を書く」と書いた。



ふと、あの日はお盆休みで電車が空いていたなと思い出し(そしてクライアントが愚痴っていたなと思い出し)、日付を見てみたら8月14日だった。

ミーコの500円 [Diary]

中学二年のとき、うずまき尻尾のチョビが死んだ。祖母も母も「もう猫は飼わない」と宣言していたし、実際その後数年間、実家には猫がいなかった。



とはいえ、30年間猫が途切れなかった家が簡単に猫と縁を切れるはずもなく、(起伏のある庭と2階の物干しとかわら屋根という理想の猫環境も手伝って)いつの頃からか、すらりとした体つきの三毛猫が庭に通ってくるようになった。

母も祖母も極力素っ気ない態度を貫いていたけれど、それでも姿を見ればついちちちと舌を鳴らして呼んでしまうのは猫好きの性であり、ついキャットフードを買ってきて庭に置いてしまうのも猫好きの性であり、いつの間にかミーコという名前がついていたのも猫好きの性であり。

とはいえ、ミーコに限っていつの間にか家に上がり込んでしまうという心配はなかった。

ミーコは絶対に触らせない猫だった。半径3メートル以内に近づくことは不可能だった。温かい日のつつじの木陰や2階の物干しの下ではけっこうくつろいだ格好で寝ているけれど、一定以下の距離に人間を入れることは絶対になかった。

人間が嫌いなわけではなさそうで、勝手口のすぐ外まで来て丸くなっていたり、湯船に浸かっていると風呂場の窓から中を覗いているミーコと目があったりもした。それでも家の中には絶対に入ろうとしない。もちろん、晩ご飯のおかずを盗んだりもしない。

そんなつかず離れずの(ある意味では当時の実家にとっては理想の)距離感を保ちながら、一年近くがたった。



数週間ミーコの姿を見かけないことが続いた。

うちの猫でもなんでもないし、言ってみれば単なる通りすがりのノラ猫なのでいついなくなっても不思議はなかったのだけど、気がつくとミーコが気に入って寝ていた場所を一日に何度かのぞき込んだりしてみてしまうのだった。

やがて(誰も口には出さなかったけど)ミーコはどこか別の場所に移動してもう戻って来ないのだと誰もが納得し、雨にも何度か濡れてしまったミーコ用のお皿も片づけられた頃、庭の隅の物置の方から祖母の叫び声が聞こえた。

駆けつけてみると、祖母が指さす物置の隙間から5匹の子猫がぞれぞろと、そして最後にミーコが姿を見せた。



白黒が2匹、茶トラが2匹、そしてミーコにそっくりな三毛が1匹。

クールで都会的な距離感のミーコと違って、子猫たちは遠慮なく家に侵入した。猫と距離を保とうとする家人の努力はまったく通用しなかった。

開口部が多い古い日本家屋で子猫の進入を防ぐことは不可能だった。狭い家の中を走り回り、あらゆる隙間に入り込むのでうっかり戸棚を閉めることもできない。お風呂の蓋の上に5匹が団子になっているせいでお風呂に入れないこともしょっちゅうだった。

最初のうちはいちいち捕まえてはつまみ出していた家人も、ついに根を上げた。

ある日、台所の床に子猫たちのためのお皿が並べられた。飼うと決めたわけでもなく、というか誰もそのことに直接触れようとしなかったけれど、いや、なんだかんだ言って、子猫たちはかわいかったし。

子猫たちが並んで(尻尾をぴりぴりさせながら)ミルクを飲む様子を、勝手口の外から眺めているミーコの姿が見えた。



数日後の朝、いつものようにミーコのお皿にキャットフードを補充しようとした母は、お皿の横に銀色に光るものが落ちているのを見つけた。

拾い上げてみると、それは小さな密封式のフリーザーバッグだった。中には四つに折りたたまれた五百円札が入っていた。母は思わず辺りを見渡した。ミーコは見あたらなかった。

誰がそんなものをそこに置いたのか、いやそもそもなんのためにフリーザーバッグの中にお札を入れたのか、見当もつかなかった。

当時は五百円硬貨が発行されて数年が経ち、五百円札はまだ流通していたけれど遠くない将来に姿を消すだろうという頃だから、記念に保存しようとしたのだろうか。

でも家人の誰にも、500円札をフリーザーバッグに入れて保存した記憶はなかった。



ミーコは二度と姿を現さなかった。後にはミルクのお皿を前に尻尾をぴりぴりさせる5匹の子猫たちが残った。

夜の野球部 [Diary]

高校時代、野球部の連中とはウマが合わなかった。野球は大好きだったけど、野球部は嫌いだった。まあ、それで言ったら母校で好きだったことなんか何もなかったけど。



夏の予選で母校の試合がテレビ中継でもされれば、必ずテレビの前で観戦した(そして応援した)けど、不思議なことにテレビに映っている「この」チームと学校にいる「あの」連中とは結びついていなかった。

ついでに言えば、テレビの中の「この」高校と、いつも通っている「あの」高校も結びついていなかった。



野球部はそこそこ強かったけど、彼らがなんとなく特別扱いされる(ように感じられる)ことも、いつも群れてる様子も気にくわなかった。

昭和40年代に1回だけ出た甲子園の写真とか初戦のウィニングボールとかが職員室の脇にいつまでも飾られてるのも。

数年前にちょっと注目されてドラフトにかかるかもしれないと言われた先輩(かからなかった)がちょくちょく顔を出して、そのたびに部員全員が直立不動でお迎えする様子も。

そして当時のぼくには(ケンカ弱いくせに)気に入らない相手を無用に挑発するという悪い癖があった。

当然、野球部の連中のほうからも僕は毛嫌いされていた。

一度だけ(文字通り体育館の裏で)10人以上の野球部員に囲まれたので、「甲子園行けなくなるよ?」という魔法の呪文を使わせてもらった。



あるとき、夜遅い時間に学校に立ち寄ることがあった。

なぜか参加することになってしまった(なりたくもなかった)海外交流行事の打ち合わせ兼壮行会みたいなものがどこかのホテルであり、顧問のI先生の車で家まで送ってもらう途中、いったん学校に立ち寄ったのだったと思う。

校舎の時計は九時すぎを指していた。そんな時間に学校に足を踏み入れるのは初めてだった。

車の中で待ってろと言われたけれど、こんな時間まで引っ張り回されて心底うんざりしていたので車から降り、真っ暗な体育館の裏(殴られそうになった場所)を通ってグラウンドの方に降りていった。

というか、一定の間隔で響く金属バットの音と照明に引き寄せられて行った。

グラウンドは明るかった。金網越しに、150人を超える巨大な野球部のおよそ半分くらいがグラウンドにいるのが見えた。

トスバッティングをしている者や、グラウンドの周囲を走っている者や、キャッチボールをしている者や、守備練習をする者がいた。ときどきコーチの怒声が響いた。残りの半分(たぶん一年生だ)は、寮の屋上でやはり黙々と素振りをしていた。

監督の姿は見えなかったから、おそらく全体練習の時間は終わって今は個人練習なのだろうと思った。個人練習にはぜんぜん見えなかったけど。

金属バットの音とかグラブにボールが収まる音とかスパイクで走る音とか甲高いかけ声とかそれに応える低い声とか、高校の野球部にしか存在しないそんな音たちが不思議に心地よいリズムを作り出していた。

いつの間にか(たぶん探しに来たのだろう)I先生が後ろに立っていっしょに練習を眺めていた。ぼくはずいぶん長い間金網に貼り付いていたようだった。

「さあ遅いぞ、帰ろう」と先生に促されるまで、ぼくは黙ってグラウンドを眺めていた。

weのスイッチ [Diary]

アメリカに住んでいた頃(70年代後半)は冷戦のまっただ中で、でもベトナム戦争はもう終わっているという時期だった。

敵は、ソビエトだった(日常会話の中ではロシア人Russiansと呼んでいた)。

細かい政治的な話はよくわからなかったけど、とにかく世界には自分たちが属するこっち側(we)とソビエトに代表されるあっち側(they)があって、いちおう日本も「こっち側」に属している、くらいに認識していた。

学校の授業とかでソビエトの話が出てくるときには不思議とweで思考していた。つまりアメリカ(が属する陣営)を代表して思考していたのだ。theyに対してweはどのように行動するべきか、というように。

ところで面白いことに、日本のことをアメリカ人に対して説明するときにもやっぱりweで思考してるのだった。もちろんこの場合は日本人を代表しているのだ。

自分がどの集団のモードで思考しているかによって、同じweでも代表するサイドが自然にスイッチする。

もちろん意識はしていない。



アル中のおじいさんが亡くなった後、隣の家には若い男三人組が引っ越してきた。長髪で騒々しくて、いつも大きな音量でレコードをかけるので(イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」とかはそれで覚えた)両親はあまり良くは思っていなかったみたいだ。

あるとき家の前の芝生に水をやっていると、そのうちの一人が話かけてきた。「ヘイ坊主」みたいな感じで。

「坊主、お前んちはチャイニーズか?」
「ジャパニーズだ」
「おお、ジャパニーズか。最近の日本はどんな感じだ?」
「大きな台風が来て大変だよ」

ちょうど台風で大きな被害が出たことを、日本語ニュースで見て知っていたからだ。

「 (We) have lots of typhoons」

日本を代表してそういうと、彼は大きく頷いた。

「(You) guys sure have lots of typhoons」

しばらくの間オキナワにいたんだと彼らは言った。

オキナワには台風たくさん来たよ。せっかくの休暇のときに限って来るんだ。すごい風の中を意地でも遊びに行くんだけど店はみんな閉まっててさ。

ぼくは頷く。オキナワに台風が多いのは理科で習って知ってる。

「(They) sure have lots of typhoons」

そのときのぼくにとって、オキナワはweではなかった。
もちろん意識はしていない。



そのオキナワ帰りの長髪にーちゃんとこれからもよろしくな、と握手したことをたぶん両親は知らない。

あ、それから声をひそめて「イーグルスみたいな音楽をみんなが聴けば戦争なんか必要なくなるんだぜ……」と教えてくれたことも。

スモールタイム [Diary]

10年前を「古き良き時代」と言ったときに、両親の世代の人(70代〜80代)にジョークとしてしか受け止められなかった、時間感覚の遠さ。



25年も前に出た奥出直人さんの「思考のエンジン」から受けた強い影響が「アウトライン・プロセッシング入門」のコアにあること。



きちんとした文章は手書きでないと気持ちがこもらないと真顔で言う人がまだ数多くいた学生時代、レポートや手紙をワープロで書いて手書きで清書するのに費やした時間の記憶。そして明るいグリーンのラミー・サファリで何かを一生懸命ノートに書いていた大学生が、YouTubeの動画から万年筆や紙のノートに手で書く良さを教えられたと楽しそうに話したこと。



昔、ある会社のエライ人に会うために13時のアポで行ったら16時に変更してくれと言われ、職場からその会社までは1時間半かかるので戻っても無駄と思い仕方なく漫画喫茶でつぶした3時間と、16時にあらためて訪問したら今日は時間がないからと30分で切り上げられた人生の一日。



家族が寝静まった深夜に布団をかぶってラジオを聴いていた中学生の頃、好きな女の子は今ごろどうしているかなと考えて、もしかしたら今この瞬間に同じラジオを聴いているだろうか、きっと眠ってるだろうな、でも聴いていたらいいな、きっと聴いてるよねという根拠のない確信を生んだ午前2時40分の魔法。